やりすぎ向上長とは何者か?
「やりすぎ向上長」という名前は、最初から名乗っていたわけではありません。
ビジネスを学ぶ場で知り合った方たちから、そう呼ばれるようになりました。
IT業界で仕事をしていると、炎上したプロジェクトや、誰も手を挙げたがらない案件に関わる機会があります。
私の場合、そうした現場に呼ばれることが多くなっていきました。
期限は厳しい。
予算も足りない。
関係者の間には不信感が残っている。
そうした状況で、まず求められるのは「早く終わらせること」です。
効率よく、余計なことはせず、とにかく前に進める。
その判断が正しい場面も、確かにあります。
ただ、私は参画した直後から全開で状況の解消に向けて動くのではなく、
まず立ち止まり、
なぜこんな状況になったのか、これを考えることが多かったのです。
割り切れなさが、いつも足を止める
「そこは今、深掘りしなくていい」
「誰かが損をしても、全体最適を優先すべきだ」
そう言われるたびに、頭では理解しつつも、どこか引っかかりを覚えていました。
説明されないまま決まった方針。
責任の所在が曖昧な判断。
声を上げにくい立場の人が、黙って引き受けている状況。
それらを見過ごしたまま進めることに、どうしても納得できなかったのです。
結果として、話を聞きに行く。
背景を整理する。
判断の理由を言葉にする。
効率だけを見れば、余計な工程です。
「やりすぎ」とまではいかなくても、迅速に解決することを望む
お客様からすると、余計なことをする奴と思われても
仕方のない行動だったと思います。
トラブルプロジェクトで身についた判断の癖
大企業や官公庁系のプロジェクトでは、技術的な正しさだけでは物事が進みません。
仕様としては正しい。 ⇒ 機能的に実現は可能というレベル。
スケジュールや計画としても妥当。 ⇒ 法的な期限が決められている。
それでも、関係者が納得していなければ、後から必ず歪みが出ます。
私はよく、次のようなことを意識していました。
- なぜその判断に至ったのか、改めて整理する
- 「分かっている前提」を置かずに説明する
- 感情的に引っかかっている点を無視しない
その積み重ねが、結果としてプロジェクトの立て直しにつながることが多々ありました。
一方で、「そこまで丁寧にやらなくてもいい」「理屈は合っているのだから進めよう」と言われることも増えていきました。
そんな経過を仲間に話すうちに、「やりすぎ向上長」という呼び名が定着していったように思います。
正義感ではなく、後悔への恐れ
誤解されやすいのですが、私は強い正義感を持った人物ではありません。
どちらかと言えば、「あとで後悔するのが嫌」なだけです。
説明しなかった判断。
見ないふりをした違和感。
それらが、後から別の問題として返ってくる場面を、何度も見てきました。
だから、「今は黙っておこう」が選べない。
「面倒でも確認しよう」を選んでしまう。
結果として、行き過ぎて見えるのだと思います。
完璧を目指しているわけではない
そして、すべてを救えるとも思っていません。
常に最善の判断ができるとも思っていません。
ただ、「なぜそう判断したのか」を、自分の言葉で説明できる状態でいたい。
その時点では最善と判断した、状況を含めてその理由を説明できること、
それだけは、大切にしてきました。
効率を優先する判断も、必要な場面はあります。
ただ、そのときに「仕方ない」で終わらせず、背景を自分なりに理解しておく。
私は、その積み重ねが、仕事だけでなく生き方にもつながっていると感じています。
このブログの出発点として
このブログでは、成功法則や即効性のある答えを提示するつもりはありません。
割り切れなかった判断。
迷いながら選んだ選択。
誠実さと効率のあいだで揺れた記録。
それらを、私はこう考えているという形で残していきます。
読んだ方が、すぐに答えを見つけられる場ではないと思っています。
自分ならどうするだろうと、立ち止まるきっかけになれば十分です。
私、「やりすぎ向上長」とは、完璧な人物ではありません。
ただ、考えることをやめきれなかった一人の記録です。
ここが、その出発点です。