器用であることが、正解だと信じていた頃
若い頃の私は、器用に立ち回れる人間こそが成熟した大人だと思っていました。
空気を読み、摩擦を避け、求められる成果をきちんと出す。
そうした振る舞いができれば、仕事は前に進む。
少なくとも当時の私は、そう信じていました。
IT業界で経験を積み、大企業や官公庁のプロジェクトに関わるようになってからも、
その考えは簡単には変わりませんでした。
調整役として振る舞い、なるべく場を荒立てず、全体を前に進める。
それがプロフェッショナルなのだと思っていたのです。
問題が起きていないプロジェクトは、ほとんどなかった
ただ、ある時期から、はっきりと気づくようになりました。
私が呼ばれるプロジェクトで、「最初から最後まで問題が起きなかった」ものは、ほとんど存在しなかったのです。
多くの場合、どこかの工程で必ずスケジュール遅延が発生していました。
(私に声がかかるということは、少なからず大きめの問題が発生している状況です)
典型的な崩れ方
よくあるのは、要件定義フェーズでの遅延です。
決まらない要件、曖昧な合意、後出しの前提条件。その結果、要件定義が予定よりも長引きます。
次に、その遅れを抱えたまま基本設計に入ります。
当然、ここでも十分な検討時間が取れず、設計の質が落ちます。
それでもスケジュールは動かせないため、詳細設計以降で「人を増やせば何とかなる」という判断が下されます。
無理な人員投入は、一時的には作業量を増やします。
しかし、引き継ぎや認識合わせのコストが増え、結果として品質は下がり、さらに遅延を生みます。
現場は、すでに無理をしていた
表向きには、計画通り進んでいるように見えることもありました。
しかし現場では、誰かが無理をして帳尻を合わせています。
残業で吸収する人、責任を一人で抱え込む人、声を上げることを諦める人。
数字だけを見れば「問題なし」と判断される状況でも、人の負荷は確実に積み上がっていました。
私は、その空気に気づいてしまう側の人間でした。
そして一度気づいてしまうと、見なかったことにはできませんでした。
やりすぎだと言われながら、立て直してきた
だから私は、遅延の原因を表層だけで終わらせませんでした。
なぜ要件が決まらなかったのか。
なぜ設計で立ち止まれなかったのか。
なぜ後工程に無理を押しつける判断が繰り返されるのか。
そこまで踏み込もうとすると、「今はそこまでしなくていい」「話を大きくしすぎだ」と言われることもありました。
短期的に見れば、その通りです。目の前の火を消すだけなら、もっと簡単な方法もあります。
それでも私は、同じ崩れ方を繰り返す構造を放置することに、どうしても納得できませんでした。
不器用さを引き受けるという選択
結果として、私は器用な立ち回りよりも、少し不器用な選択を重ねてきたのだと思います。
「今の進め方では後続の工程で問題が出るから、今のうちに時間をかけても解決しておくべきだ!」
こんな提案を何度もしました。
その時のプロジェクトリーダーには「あなたの言うことは理想論に過ぎない、私が責任者なんだから、従ってください。」と言われたこともあります。
調整役としては、扱いづらい存在だったかもしれません。
それでも、「自分はこの判断で納得できるか」という問いだけは、手放さずにきました。
誰かが無理をして成立している状態を、当たり前にしない。そのために、時間を使い、言葉を尽くす。
その姿勢が、「やりすぎ」と映ったのだと思います。そしていつの間にか、「やりすぎ向上長」という呼び名が定着しました。
ちなみに、前述のプロジェクトでは、指摘から3か月ほど経過したころ、私が伝えていたタイミングで伝えていた問題が発生し、基本設計から再検討になりかねない状況になりました。
絶対に問題になると考えていたので、解決策を講じた設計をこっそり行っておいたのですが、それが日の目を見ることになり、ものすごく感謝されたことが記憶に残っています。
なかなかに珍しいタイプのリーダーで、「理想論に過ぎないとか言ってごめんなさい」と謝罪してくれたことをよく覚えています。(誤りを認めて謝れる人なんだなー、と感心しましたね)
無骨でも、人間らしくありたい
私は、不器用であること自体が正しいとは思っていません。
ただ、割り切れない違和感を無視し続けることが、必ずしも正解だとも思えないのです。
人はロジックだけでは動きません。感情や納得感が欠けたまま進めば、どこかで必ず歪みが表に出ます。
だから私は、効率と同じくらい、人の負荷や感情を重く扱いたいと考えています。
これからも私は、無骨なまま考え続けます。
答えを急がず、問いを抱えたまま進む。
その姿勢こそが、私にとっての人間らしさだからです。